孤独とは、「自身のなにか大切なものを失うことである」と。
そう筆者が五篇の短編を通じて主張しているような作品です。「孤独か、それに等しいもの」では双子の妹の死。「ソウルケージ」では母親の死。と、主人公は身近な人の死の記憶にもがき苦しみながらも、その記憶に絡められた過去の自分と決別しながら、徐々に回復し蘇っていく。その過程が、望まれたかのように、誰かが望んでいるかのようになぞられていく。どこか、強い意図を感じるような作品集です。
ひとつ。「八月の傾斜」は彼女の恋人“大久保くん”との恋模様を取り上げます。とても段階や順番を大切にする大久保と、自身の想いが先行する彼女の対比が年数とともに描かれています。高校生は手を繋ぐまで、大学生はキスをするまで、大人は、とストイックすぎるまでの段階は彼の大切な信念でしょう。彼女は”大切なもの”を知覚せず、意のままに生きている。しかし、彼が死んだことで大きく一変します。彼女にとって大切なものは“彼”であり、彼の大切なものは手紙に残された通りのものでした。主人公はその後、十数年にわたって思い浮かべ過ごす日々が続きます。それは、彼の残像や行った場所、したこと、彼と過ごした時間そのものが記憶として彼女の周りを漂っているのです。ただしそれは、彼のことを寂しく思っているのではなく、彼と過ごした自分自身そのものに恋しく感じているのです。二度と取り返すことのできない記憶の堆積物に”大久保くん”という敬称をつけて読んでいるようなものだと思います。そんな印象物のある短話です。
最近は寂しい時間が多いです。学生という人生の夏休みを過ごしているあまり、ありがたいことに友人や家族がそばにいる環境が自然に構築されるとともに研究や就職活動などやるべきことも多く存在します。しかし、夏休みの半分以上を過ごす中で特別なものさえ普通なものに変容し、コスパ・タイパと身の回りの物事がコモディティ化しているような感覚に陥ります。何事にも現在および将来的な意味・価値を見出され、無駄を省かれ、何もかも社会の縮図として纏められてしまう事柄ばかりです。自分の”やりたいこと””目指していること”に対して、十分に熱中できていない意識が強く存在します。何かに熱中できないからこそ、自分の意に反して行動する他人に興味を抱き、どこか面白いものを見つめるかのように依存してしまう。他人の一挙手一投足に左右されたり、Lineの返信を待ちわびてみたり、本や映画を見つづられなかったり。そんな自分が自然と目についてしまうとともに俯瞰したとき、ものすごく気持ち悪さを感じています。そんな時、どこか”孤独だな”と思います。この、孤独を脱するために、周りの人は「趣味をみつけろ」だとか「海外旅行をしてみろ」だとか「動き回ってみろ」といいます。勿論、それら解決策が間違っていることはなく、きっと、それらを達成した暁には自身の成長を感じられるとともに、孤独を脱することができるのではないでしょうか。でも、そんなことはずっと前から十分解っています。それらを達成することができないのは、自分にはその意欲すらなく、環境に守られて生きることを望んでいるからではないでしょうか。環境が大きく変化することで、寂しさもその意識も変容・忘却すると思っています。例えば、人生の夏休みから解放され、社会人として一般的には大きな地位と権利を得ることになってしまった暁には、寂しさなんて感じることができなくなってしまうかもしれません。社会人になれば新しい事・ひと・ものの連続であり、きっと数年間の平日は飽きない日々が続くでしょう。大学生とは異なる視点で物事を楽しむこと・満喫することができ、これまでよりも膨大な充足感を感じれるでしょう。そう期待をもったまま社会人になりたいと願望として思っています。
そんなくだらないことを思いながら、また冬が過ぎてしまいました。もう、春になります。